モディリアーニを知るポイント3つ

今回の記事では

モディリアーニのドラマチックな人生や、
なぜあの細長い絵なのかなど、
3つのポイントを知ることで分かりやすくなっています。

画家のモディリアーニが好きな方
だけではなく、
彫刻の好きな方も必読。

モディリアーニ?誰?と思う方でも、
ラブストーリーが好きな方なら
ちょっと覗いてみてください。
20世紀初頭の「ロミオとジュリエット」がモディリアーニの人生です。

モディリアーニはこんな画家

イタリア系ユダヤ人の画家で彫刻家

アメデオ・モディリアーニ
(Amedeo Modigliani)

顔の長ーい人物を描いた画家です。

Secret Modigliani.com/complete
↑モディリアーニの全作品が見れます。

(ポイント1)1906年イタリアからパリへ
後に同時代の画家を「エコール・ド・パリ」と言われるようになります。

(ポイント2)1909-14年は彫刻に専念。
この時期出会ったのが、
ルーマニアの彫刻家「ブランクーシ」

(ポイント3)1920年、35歳没。
妻で画家の「ジャンヌ」は夫の後を追います。

これらモディリアーニを知るための3ポイントを詳しく紹介します。

パリの異邦人「エコール・ド・パリ」

1925年、
フランスで活躍する他国生まれの芸術家に対し

「エコール・ド・パリ」
(École de Paris)
または「パリ派」(School of Paris)

と呼ぶようになりました。

この時期は
第一次世界大戦から第二次世界大戦への間。

その背景から、
単純にパリにいた外国人ということではなく、
中でもユダヤ系が多く、
差別的なニュアンスが含まれていました。

戦後、差別的意味をなくすため、
外国人限定とはせず、
この時期の画家たちの意味に範囲を広げて使われるようになったのです。

初期はマティスやピカソ、
シャガールやモンドリアンも含まれます。

中期にモディリアーニ、ユトリロ、レオナール・フジタ(藤田嗣治)など。

後期は抽象表現主義やアヴァンギャルドの流れの芸術家たちになります。

「エコール・ド・パリ」は画風には全く統一性はありません。

彫刻家モディリアーニとブランクーシ

モディリアーニは自身を画家よりも
彫刻家であると考えていました。

1909年から1年間、
ルーマニア人彫刻家

コンスタンティン・ブランクーシ
(Constantin Brâncuși)

の、弟子となりました。

ブランクーシは
ロダンの影響のある彫刻家ですが、
作品はとても表現を切り詰めシンプルで抽象的です。

イサムノグチも助手をしていたことがあり、
レディメイドのデュシャンや写真家のマンレイとも親交があり
多くの芸術家に影響を及ぼした偉大な彫刻家の一人です。

ルーマニアの紙幣にもなったほど。

ブランクーシの彫刻↓

モディリアーニの肖像画の目と同じですね。

他のブランクーシの彫刻も
シンプルで縦に長いものが多いです。

このような彫刻を作る、
ブランクーシに弟子入りした
モディリアーニの彫刻も…ながーい。

Head of a Woman 1910-11
↑ワシントンD.C.ナショナル・ギャラリー所蔵

1914年、体調不良や戦争により、
彫刻に関する材料の入手が難しくなり、

モディリアーニは彫刻から離れ
絵画に専念を始めました。

モディリアーニと画家の妻ジャンヌ

1917年、絵を学んでおり、
レオナール・フジタ(藤田嗣治)の
モデルでもあった19歳の美しい女性、

ジャンヌ・エビュテルヌ
(Jeanne Hébuterne)

を、ロシアの彫刻家オルロフから紹介され、
モディリアーニとジャンヌは出会いました。

ジャンヌは保守的なブルジョワ出身。
アルコールと薬物依存症の画家との交際は認めてもらえないまま同棲を始めました。

以降、多くのジャンヌの肖像画をモディリアーニは描いています。

Jeanne Hébuterne 1919
↑メトロポリタン美術館所蔵

1917年は初の個展を行った年でしたが、
展示されたヌードが問題になり、
警察沙汰になり数時間で中止となりました。

現在では一億円以上の価値のあるモディリアーニの描いたヌードですけど。

1918年
戦争の避難でフジタなど友人と共にニースへ行き、ルノワールやピカソなどと交流。
そこで娘が生まれます。

1919年パリへ戻ります。
ジャンヌは二人目の子供を妊娠。
二人はジャンヌの家族に反対されながらも婚約します。

しかし、そこでモディリアーニの結核が発覚。

1920年、
モディリアーニは結核性髄膜炎で35歳で亡くなりました。

↑ジャンヌの描いたモディリアーニ

その2日後、
ジャンヌはモディリアーニの後を追いました。
妊娠した体で実家の5階から身を投げたのです。

ジャンヌの遺体は家族が、
モディリアーニとは別の場所に埋葬。

10年後の1930年に同じ墓に移されました。

モディリアーニは死後評判が上がり、
作品は値上がりしました。

このドラマチックなモディリアーニの人生は多くの小説、劇、映画…となっています。

それにしても、
最初の娘は当時まだ1歳。
どうなったか気になります。

最初の娘、
母と同じ名前の「ジャンヌ」は
モディリアーニの妹に引き取られフィレンツェで無事に育ちました。

大人になり芸術史を専攻、
父親、モディリアーニの伝記を書きました。
よかったね〜。ホッとした。

モディリアーニを知るポイントのまとめ

モディリアーニを知るための以下の3ポイントを紹介しました。

(ポイント1)
モディリアーニはイタリア系ユダヤ人でパリへ移住し画家と彫刻家の活動をしました。

第一次、二次世界大戦前後のパリで芸術活動をした、
主に外国人をまとめて「エコール・ド・パリ」と言ってました。
その中期にモディリアーニはユトリロやレオナール藤田と仲良くしていました。

(ポイント2)
彫刻家として活動するため、
ルーマニアの彫刻家ブランクーシに弟子入りしました。

戦争や体調の困難から彫刻家の活動は5年で終わりましたが、
その影響はその後の絵画に如実に現れています。

(ポイント3)
アルコールと薬物の依存症だったモディリアーニは
結核により35歳で亡くなり、妻のジャンヌも後を追い2日後に亡くなりました。

今回の記事を読んでいただけたら、
次回美術館でモディリアーニの絵を見た時に、
新たな感覚が現れることでしょう。
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