なぜタヒチを描いたか?ゴーギャンと「快楽の館」

今回の記事では
なぜタヒチへゴーギャンは行ったのか?
が、わかります。

実はペルー人の血筋だったゴーギャン。
もしかしたらその遺伝子が
彼をタヒチへ向かわせたのかもしれません。

ゴーギャンの絵は
胸が露で見るのが恥ずかしい…
なんて思う方は
ここでゴーギャンをゆっくり見て下さい。

タヒチへ向かうべくして向かったゴーギャン

ゴーギャンと言えばタヒチ、
タヒチと言えばゴーギャン。

ゴーギャンの名画の多くは
タヒチが素材となっています。

Two Tahitian Women With Mango Flowers 1899

たとえば、
マネ名画オランピアのゴーギャン版

The Spirit of the Dead Keeps Watch 1892

なぜゴーギャンがタヒチへ向かったのか?

ゴーギャンは元々株式仲介人で、
美術学校などは出ず、
休日に画家をしていた、
「日曜画家」でした。

多くのパリの画家とは
少し違う環境だったのですが、
他にも違いがありました。

南米ペルーとゴーギャン

1848年
フランス2月革命が起こった年、
ゴーギャンはフランス、パリに生まれました。

ジャーナリストの父親が
フランス政府から弾圧され、

ゴーギャン一家はフランスから、
ペルーの親戚を頼り、
ゴーギャン1歳で南米ペルーへ渡りました。

ペルーへ渡る舟で父親は急死したものの、

母方の祖母の父親が
スペイン貴族出身のペルー人で、
ペルーで有力な家系でしたので、

その後6歳までゴーギャンは
南米ペルーで使用人付きの豊かな生活をしていました。

1854年ペルーの内戦により、
ゴーギャンの親戚の権力がなくなり、

収入の途絶えた母親は新しい仕事のため
子供を連れパリへ戻ります。

The Artist’s Mother between 1890 and 1893

ペルーには幸せな思い出が

ゴーギャンがタヒチへ行った理由は、
ペルーへ戻りたかったのではないだろうか?

と、思うのです。

↓タヒチとペルーの位置

タヒチはフランス領だったので移住しやすかったのでしょう。
でも本当は、
ペルーに戻りたい気持ちもあったのかな?

パナマからカリブ海のマルティニーク島

1887年、ゴーギャンはパナマを訪れ、
帰国途中に寄港した
フランス領、マルティニーク島に滞在し、
12枚の絵画を描きました。

後のタヒチの絵に近づいていますが、
それよりもこの絵は浮世絵の影響が強い構図です。

「海辺II」1887年 個人所蔵

タヒチとゴーギャン

1891年4月1日
タヒチへ向かいました。

ゴーギャンにとってパリは
人工的で変化のないつまらない場所となっていたのです。

1891年の「イア・オラナ・マリア」

↓メトロポリタン美術館所蔵
Ia Orana Maria

タヒチとゴッホとゴーギャン

そもそも1888年にゴッホの誘いに乗り
アルルへ移住したのも、

パリのつまらなさから
脱出したかったのかもしれません。
ゴーギャンにとって、
ゴッホの刺激はちょっと違う方向だったみたいですが。

もう一つの見方をすると、
このゴッホとの暮らしで何か
心に傷を受けていたことも考えられます。

ゴッホとの何かの苦しみから解放されたい…
そんなことも考えられますね。

「ゴッホのヒマワリ」はゴッホが
ゴーギャンのために描いた絵でした。

なんと言ってもゴーギャンは
ゴッホににナイフを突きつけられ、
ゴッホは耳を切り落とした後、
死なれてしまったのですから。

ゴーギャンはタヒチに移住した後、
フランスからヒマワリの種を送ってもらい、
タヒチでヒマワリを育て、
それを絵にしています。

ゴーギャンは何を思っていたのでしょう。
絵の奥に不自然に存在するヒマワリ。

花の中心は「目」と見ることもでき、
窓の外の女性は、
他の絵で描くタヒチ女性とは表情が違います。

美術館の解説には「仏」の表情の様だとあります。

Still life with sunflowers on an armchair 1901
↑エルミタージュ美術館所蔵

↑Still life with sunflowers on an armchair 1901 個人所蔵
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フランス領であるポリネシア、タヒチの闇

1768年西洋人が初めてタヒチを訪れ
フランス植民地への道を歩みます。

ゴーギャンの憧れたタヒチは、
独自の神「オロ」を信仰するアリオイ社会。

そこに憧れ、
タヒチへ移住した所、

植民化されて50年程経っているため、
既に現地の人々はヨーロッパから持ち込まれた病原菌で人口が減り、

キリスト教も浸透し、フランスのルールに則った生活をしていました。

それは、ゴーギャンを落胆させたのでしょう。

↓パリに戻った頃に描いた絵

↓ボルチモア美術館の所蔵です。
The Violoncellist Schneklud 1894

○○未遂したゴーギャン

1895年2度目のタヒチへ渡りました。

1897年
タヒチが思う様な楽園ではなかったこと?
病気?
パリの人たちとの人間関係?

もしかしたらゴッホのこと…
この年、娘が肺炎で亡くなったからか…

この絵のタイトルは、

「我々はどこから来たのか?何者か?どこへ行くのか?」
(Where do we come from? Who are we? Where are we going?)

この絵を残し服毒自◯を図りました。

それは失敗でしたが、
これを遺書として描いたのでしょう。

移住し「快楽の家」に暮らす

1901年タヒチから、さらに離れた
マルキーズ諸島へと移住しました。

この時ゴーギャンが住んでいた
「快楽の館」を意味する、
「メゾン・デュ・ジュイール」が再現され、

現在は「ポールゴーギャン文化センター」となっています。
Paul Gauguin Cultural Center
この家ではヌード写真を大量に飾り、
14歳の娘を妻にし子供も設けています。

まさに快楽の館。

それ故に
近所の教会とトラブルになり、
裁判の最中に病気か心労か、
亡くなってしまいました。

ゴーギャンは死ぬまでの最後の3年間
このマキーズ諸島で暮らし、
パリには戻りませんでした。

ゴーギャンの墓も
このマルキーズ諸島にあります。

タヒチへ行ったゴーギャンのまとめ

ゴーギャンのルーツには、
タヒチと緯度がほぼ同じ、
南米ペルーの血が入っていたのですね。

ペルーの幼少期の楽しい思い出と、
フランス領で渡りやすいタヒチが
ゴーギャンを結びつけたのかもしれません。

そしてパリから遠くは慣れても、
2ヶ月だけ一緒に暮らしたゴッホへの思いは持ち続けていたこともわかりました。

しかしタヒチは
ゴーギャンが求めた本当の楽園でもなかった様ですね。

今回の記事を参考に、
ゴーギャンのタヒチの絵も
見え方が少し変わると嬉しいです。
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