[そして日本画に]カンタン日本の絵の歴史

今回の記事は
「日本画」という言葉になる前の
日本の絵の歴史が分ります。

日本画って日本で描かれた絵じゃないの?
と思われるかもしれませんが、
ちょっとだけ違うんです。

日本画を始めるためにお勉強中の私が、
日本画に興味がない人もすぐ分るように
カンタンに日本の江戸時代までの美術史をまとめます。

「日本画」の歴史は明治から

「日本画」は英語でも(Nihonga)

岩絵の具で絵を描くことは
古くからありましたが、
「日本画」と呼ばれるのは明治時代からです。

その元となったのは
「大森貝塚」を発見したモース。

動物学者のモースが日本美術のすばらしさを
ボストンのセイラムという地域に伝えました。
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セイラムは魔女裁判で有名なアメリカの町です。
ハロウィンに魔女はいかが?ボストンの魔女狩りのお話し
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セイラムでモースが日本美術を広め、
それに影響され

哲学者であり、美術も学んでいた
「アーネスト・フェノロサ」が影響を受け、
日本にやってきたことで

「西洋画」と区別するために
「日本画」と言う言葉が生まれました。

言葉は明治時代に出来たのですが、
日本流の絵はずっとずっと前からありました。

平安時代に成熟した「大和絵」

奈良時代、仏教などと一緒に
「唐絵」(漢画/中国画)が輸入されました。

日本最古の絵として有名なのが、
高松塚古墳 西壁女子群像

国営飛鳥歴史公園/高松塚古墳

絵画様式として伝わった「唐絵」ですが、
平安時代に日本独自に進化し、
「唐絵」を「大和絵」と呼ぶ様になりました。

源氏物語絵巻 竹河 (徳川美術館所蔵)

「大和絵」は
「岩絵の具」や「ニカワ」を使った、
基本的には「日本画」と同じものでした。

鎌倉〜安土桃山の「大和絵」

鎌倉から南北朝時代、
大和絵の技法で描いた肖像画
「似絵」(にせえ)が流行していました。

後鳥羽天皇像 藤原信実 (水無瀬神宮所蔵)

ヨーロッパで言うなら宮廷画家の居場所を
平安時代は「画所」(えどころ)と言い、

室町以降には、
それらが寺院などに設けられた工房となり

「絵所預」(えどころあずかり)
となりました。

「土佐派」出現から凋落

土佐光信は「絵所預」で多くの作品を残し、
大和絵の題材や技法の拡大させた絵師です。

初の「洛中洛外図」を描いたとされ、
百鬼夜行絵巻なども残しています。

ヨーロッパ的に言えば貴族をパトロンとした
土佐光信が起こした土佐派は
戦国時代に入り凋落。

一度は消えかけた土佐派ですが、
江戸時代に入り朝廷の絵所預職であり続けました。

ついに「狩野派」登場

室町時代8代将軍足利義政に仕えた
狩野正信が始祖であり、

その後も
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と
名立たる戦国武将に仕え続けた

「狩野派」

全て親族からなる、
華麗なる絵師一族です。

足利義尚像 狩野正信 1489年

戦国武将に愛された「狩野永徳」

織田信長、豊臣秀吉に仕えた絵師
狩野永徳(かのう えいとく)

狩野派の中で一番有名な名前ですが、
その作品は戦国時代でしたので、
城ごと焼けてしまい、多くが消失しています。

当時の日記や記録から、
安土桃山城や大阪城に
すばらしい障子絵が描かれていたそうです。


柳橋図屏風 Kano Eitoku
↑ボストン美術館所蔵


唐獅子図


上杉本 洛中洛外図屏風 右隻
↑米沢市上杉博物館所蔵
米沢市上杉博物館/収蔵文化財データベース
↑検索し拡大して楽しんで下さい。

江戸の前期は「狩野探幽」

江戸前期を代表する狩野派の絵師、
雪舟に学んだ水墨画の様な画風の

「狩野探幽」(かのう たんゆう)


四季山水図屏風 1630
↑メトロポリタン美術館所蔵

どれも、このように水墨画的でシンプルな絵です。
戦争が無くなり落ち着いてきた江戸前期だからこそですね。

大きくなりすぎた「狩野派」

狩野派は巨大化し
「奥絵師」と呼ばれた4つの狩野家は
侍同様帯刀し、旗本と同格になり、
将軍と直接合うことも出来ました。

そのような巨大化から、
作品は集団で描く様になり、過去の絵の踏襲が続き
個性は無くなって行きました。

また、
徳川に仕えず京都に「狩野山楽」が残り、
「京狩野派」も存在していました。

牡丹図襖(大覚寺宸殿障壁画)

江戸時代:その他の「日本の画」

江戸時代に絵を描いていたのは
「狩野派」だけではありません。

細かくは沢山ありますが、
ここでは
「琳派」「円山・四条派」
「長崎派」「浮世絵」の紹介です。

絵だけではない「琳派」

装飾的な主題や技法を、
血縁ではなく受け継ぎながら、
室町から近代まで続いた

「琳派」(りんぱ)

絵画だけではなく工芸などもあります。
「琳派」代表の3人の絵師を紹介。

「琳派」の創始者「俵屋宗達」

「琳派」の名前は光琳から
「尾形光琳」

江戸後期の「琳派」の絵師
「鈴木 其一(きいつ)」

朝顔図屏風 Morning Glories early 19th century
↑メトロポリタン美術館所蔵なんですが、
なかなか展示してくれない。

マミーの絵を見たら分る様に、
影響受けまくり「琳派」大好きなので、
今度もっと詳しく記事にします。

京都の大和絵「円山・四条派」

円山応挙の円山派
呉春の四条派

どちらも写生から自然風景を描き、
江戸中期の京都で活躍していました。

楼閣山水、風雪三顧図巻 1776 円山応挙
↑ボストン美術館所蔵

松村呉春筆 雪中松に鴨図 1790 呉春
↑メトロポリタン美術館所蔵

同時期の京都、
「伊藤若冲」も描いていました。

写生を元に描いていましたが、
「派」はありません。

強烈な色と細密さ。
現代に人気が出るのも仕方ありません。

出島アート「長崎派」

長崎で異文化を描いた
様々な画風の総称が「長崎派」です。

シーボルトのお抱え絵師
「川原 慶賀(けいが)」など

唐蘭館図・蘭船入港図

江戸のアートと言えば「浮世絵」

庶民のための浮世絵であったため、
侍を描くことが出来ませんでした。

アートと言うよりも、
当時の広告やブロマイドなどの
役割のものが多いのですが、

浮世絵の絵師の中には、
木版画だけではなく、
直接描く「肉筆浮世絵」もありました。

葛飾北斎の肉筆画

鳳凰図屏風 1835
↑ボストン美術館所蔵

「日本画」になる前の日本の絵の歴史のまとめ

岩絵の具などで描かれた絵を
「日本画」と言われる様になったのは
明治時代、
アメリカ人哲学者フェノロサが名付けてからでした。

明治時代前は
同じ手法も「大和絵」と言われていました。

平安時代の貴族達を描いた「大和絵」から、
朝廷に好まれた「土佐派」
戦国武将に好まれ、
徳川幕府と共にあり続けた「狩野派」、

他にも、
「琳派」、「円山・四条派」、
「長崎派」、「浮世絵」
を代表絵師と共に紹介しました。

「日本画」は元「大和絵」で、
様々な「派」が日本の歴史と共に勃興凋落しつつ、
明治の「日本画」に受け継がれて行ったのですね。
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