メキシコの画家「フリーダ・カーロ」の困難5つ

今回の記事ではメキシコの画家
フリーダ・カーロの波乱の人生についてわかります。

幼少期から病気により多くの困難があったものの、
その困難こそが、
自画像を描き続けた原点でもありました。

フリーダ・カーロはなぜ自画像を描くのか
不思議に思っていた方必読。

メキシコの画家フリーダの困難

メキシコに生まれ、メキシコに育った
メキシコの画家

フリーダ・カーロ
(Fria kahlo)

画家としての困難は少ないフリーダでしたが、
幼少期から心身の困難はことあるごとに続き、

47歳と少し若い年齢で
「たぶん」病気で亡くなっています。

今回は彼女の大きな困難を通し、
それがフリーダ・カーロの作品にどう表されたのか紹介します。

親も病気、6歳でポリオ

フリーダは父母姉二人妹の6人家族で、
父はてんかんを持病に持つハンガリー系ユダヤ人。
父の影響で絵を描き始めています。

メキシコ人の母はフリーダ出産後体調を崩し、
フリーダは乳母に育てられました。

夫婦関係も良くはなく、
子供時代のフリーダの家庭は
「非常に悲しい雰囲気であった」
とフリーダ自身が言っていたそうです。

↓右からフリーダ、クリスティアーナ、マティルダ、アドリアーナ(1916撮影)

フリーダが6歳の時
ポリオ(急性灰白髄炎)にかかりました。
ポリオウィルスにより
脊髄のタンパク質が炎症を起こす病気で、

フリーダは9ヶ月も寝たきりとなりました。

後遺症で右足の成長が止まり、
左右で太さが違っていました。

民族衣装のロングドレスを着ていたのは
足を隠す意味もありました。

学力優秀だったフリーダは、
15歳で医師になるための勉強ができる
エリート学校へ進学しました。

その学校では2000人の学生のうち、
女性が35人という比率だったそうです。

病気にかかったとは言え、
順調に成長していました。

↑1922年、フリーダ15歳で描いた自画像

18歳の交通事故

フリーダ18歳の学校の帰り道、
ボーイフレンドと一緒にバスに乗っていまいた。

そのバスが路面電車と衝突し、
数人の死亡者も出た大事故を起こしました。

鎖骨、肋骨、足、骨盤を痛め、
特に骨盤には鉄の手すりが刺さる大怪我でした。

3ヶ月はベットの上で動けず、
医師になる夢も諦めるしかありませんでした。
Accidente, 17 septiembre 1926
↑フリーダが描いた事故の様子

治療中にボーイフレンドとも別れることになり、
夢とボーイフレンドを同時に失ったフリーダでしたが、

家族がフリーダのために
ベットで絵を描けるように
特別なイーゼルを用意してもらったことで、絵にのめり込み始めました。
Frida Kahlo at ABC Hospital sketching , 1951 Photo by Juan Guzman
↑これは晩年ベットで描いている様子ですが、
このようなイーゼルを家族が用意しました。

この事故からフリーダは
絵を本格的に描き始めます。

The Bus 1929
↑事故の絵を描いたことはありませんが、
事故前と思われるバスの中の静かな風景を描いています。

バスの外の景色の建物に、
スペイン語で「笑い」の意味の
La Risa(The Laugh)と書かれたビルがあります。

皮肉なのか?
つらい過去を乗り越えたい気持ちか?

Dolores Olmedo Museum
所蔵だそうです。

美女と野獣の結婚と流産

1929年21歳年上の
メキシコ人壁画画家ディエゴ・リベラと結婚しました。

Frieda and Diego Rivera, 1931
↑SFMOMA所蔵

この絵の頃、
ディエゴに仕事が入り二人は
メキシコからアメリカへ移住。

サンフランシスコ、
デトロイト、
ニューヨークと居住しました。

フリーダは1930年、32年、34年と妊娠しましたがすべて流産。

18歳の交通事故の時、
骨盤の怪我と共に子宮も影響があったことが原因でした。

そんな中描いた、
1932年の2枚は痛々しいものです。
この期間にメキシコの母親も病気で亡くなっていました。

Henry Ford Hospital (The Flying Bed)

My Birth 1932

この流産を乗り越えた1936年の作品。

My Grandparents, My Parents, and I (Family Tree) 1936
↑MOMA所蔵

妹と!?不倫の苦悩

1934年
ホームシックになったフリーダのため
二人はメキシコへ戻りました。

そこでもまた2度の流産、
虫垂炎、壊疽によるつま先の切断と、
肉体の困難が続きました。

アメリカに残りたかった夫とは関係が悪くなっていたところ、

夫ディエゴ・リベラはフリーダの妹と関係を持ちました。

このダメージはもちろん大きく、
離婚の検討に入りましたが、
なんとか生活は一緒にしていました。

1939年に離婚しましたが、
その間はお互いに別の相手がおり、
円満離婚となったそうです。

ここはドロドロにならず良かったですよね。

What the Water Gave Me 1938

夫の不倫だけを取り上げましたが、
フリーダ・カーロは性的にも奔放で、

イサム・ノグチと付き合ったり、
ジョージア・オキーフとも関係があったとか、
どちらがどう悪かったとは言えないのかもしれません。

同じ人と再婚

離婚後、
画家としては成功していました。

裏腹に健康状態は悪化。
さらにアルコール依存にもなっていました。

1940年サンフランシスコへ
脊髄の手術のために訪れた時に
仕事でサンフランシスコにいた
元夫ディエゴと再開。

再婚することになりました。

Self Portrait with Cropped Hair 1940
↑MOMA所蔵

押し寄せる困難 手術の失敗

1941年にフリーダの父親が亡くなり、
フリーダはうつ病になりました。

Portrait of My Father 1951
↑フリーダ・カーロ博物館所蔵

その後脊髄の状態が悪化し、
座ることも立つこともできなくなりました。

The Broken Column 1944

1945年、
ニューヨークで高度な手術を受けましたが、
それが失敗。

Without Hope 1945

1950年、
メキシコシティーで再手術をしましたが、
感染症に苦しみます。

1953年、
右足が壊疽し膝から下で切断しました。

この頃から落ち込みがひどくなり、
鎮痛剤への依存が始まりました。

MEXICO. Mexico City. Mexican painter Frida KAHLO. 1954.

ここにきて、
また夫ディエゴの婚外交渉がわかり、
フリーダは自殺未遂を起こします。

1954年
肺塞栓症にて亡くなりました。

フリーダの最後の看護師は
処方より多く鎮痛剤を飲んでいたと言っているそうです。

メキシコの画家フリーダ・カーロ
最後の作品は
「Viva la Vida (人生にバンザイ)」

Viva la Vida, Watermelons 1954

夫ディエゴは3年後1957年に亡くなっています。

メキシコの画家フリーダ・カーロの困難まとめ

今回はフリーダ・カーロの困難から作品を紹介していきました。

困難1、子供時代の病気
困難2、18歳の交通事故
困難3、続く流産
困難4、夫の不貞
困難5、手術失敗その他色々

辛いものを主軸にしてしまい、
書いていて自分も苦しくなってきてしまいました。

他にもフリーダ・カーロについては、

メキシコ人として、
チカーノとして、
LGBTQとして、
共産党員として、
動物好きとして、
シュルレアリストとして…

などの角度で
今回は書いていない見方があります。

皆様も今回の不幸なフリーダだけではなく、
角度を変えてフリーダの人生を見てみてください。
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サイト内関連リンク

フリーダと関係があったと言われる
ジョージア・オキーフも
夫の不貞に悩まされていました。
オキーフとかの子の不倫論

フリーダの夫ディエゴ・リベラは
パリでモディリアーニと付き合いがありました。
モディリアーニを知るポイント3つ

フリーダはボッティチェリなどルネサンスの影響が画風や構成に見られます。
シュルレアリズム?いえ…ルネサンスの[ボス]
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フリーダの絵はシュルレアリスムとして欧米へ紹介されました。
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