マミーが絵を描く[秘密]

……言葉にならない。

人間の心は複雑怪奇だ。

時として自分が陥った状態を言語化していくのに、
膨大な過程を経なければならない。

ニューヨークという華やかな都会に住む
「絵描きマミー」こと Yukiyo Murakami さんは、
突如名状しがたい衝動につき動かされた。

感情のコントロールが効かなくなり、
長男を怒鳴りつけ、なじり、泣き喚いた。

意識の冷めた部分で
「自分が壊れてしまったこと」を自覚した。

しかし理由が分からない。
新興大企業に勤める夫共々カウンセリングを受けた。

「世界の中心」とも言うべき
この都会に来る直前の4ヶ月間、
彼女はどうにもならない問題に翻弄されていた。

夫の転職先の入社条件がアメリカ勤務だったのにも関わらず、
ワンマン社長の一言で保留になったのだ。

周囲に渡米の件は伝えてしまっていたし、
引っ越しの準備も進んでいた。

しかしアメリカに行けるとも、
行けないとも言えない状態のまま、

唐突に放り置かれた。

当時、彼女は二人の子供と京都住まいで、夫は東京勤務。
本当は数週間したら合流して渡米するはずだった。

数ヶ月が過ぎた。

やり場のない憤りを抱えたまま、
彼女は一旦東京に移り住むことにした。

知人はおらず、世の中から切り離されたように感じる。
心理的に追い詰められた。

それでも耐えた甲斐があり、
アメリカ行きの目処が見えて来た頃、
天変地異が起きた。

東日本大震災である。

住まいがあったのは、大田区の埋め立て地だった。

東北の被災地同様、
自分の住んでいる地域が汚染の注意喚起されていることを、
彼女はテレビで知った。

肝心なときに夫は名古屋へ出張中だ。
8歳の長男と3歳の長女を抱えた彼女は、
心細さから半狂乱になった。

夫は翌日帰ってきた。
自宅も自分たちも直接被害に遭うことはなかった。
念願の渡米も実現し、
一見すべてが順調に回り出したかのように見えた。

ところが、
彼女は日本社会からの疎外感を感じてしまった。

当時の日本は「絆」とか「節電」、
「がんばろう東北」などの掛け声で一体感を醸成していた。

その空気をふりほどいてアメリカに行くことが、
とんでもない罪悪のように思えたのだ。

もちろんアメリカ行きは、ずっと前から動いていた話だ。
震災で海外に避難した人たちもいたが、自分たちはちがう。
駐在員として赴任するのだ。

にもかかわらず、
社会から除け者にされていくように思えた。

ニューヨークには、独身時代になんどか来たことがあった。
「将来ここに住むかも知れない」と直感が働いた。
そのビジョンは現実になった。

しかしアメリカから見て311は対岸の火事だった。

日本を出るときに感じた疎外感は、
ニューヨークの日本人コミュニティーでは理解してもらえなかった。
震災を経験していないので、分かってもらえないのだ。

家族全員が無事で、
被災地から来たのでもない。

無事で良かったね。

それでこの話題はおしまいだ。
マミーさんがどれだけ恐い思いをしたのか、という話にはならない。

そうこうするうちに慌ただしく日々が過ぎ、
2011年の年の瀬が近づいてきた。

すこし落ち着いて緊張の糸が緩んできたからだろうか。
自分でも訳が分からないのだが、
突然目に映るすべてが不吉なものに思えてきた。

ここから彼女は長い闘病生活に入る。

カウンセリングに通い出し、心情を吐き出した。
心の重荷がすこしだけ軽くなった。

しかし安心してしまったせいなのか、
ぐったりして起き上がることさえ出来なくなった。
家にはいたが、子育てもまともに出来ず、料理などの家事も出来ない。

せっかく憧れのニューヨークにいるのに、
彼女はほとんどずっと倒れていた。

そして5年もの間、
自分の存在意義を疑いながら悶えつづけた。

そんな状態でも週に1度のカウンセリング通いは継続した。

はじめのうちは、カウンセリングのセッション中に
夫や夫の会社の悪口ばかり口にした。

「東京に移動さえしなければ、地震には遭わなかったはずだ」と言い続けた。

震災の体験を持ち出したのは、
通い出して1ヶ月ほど経ってからのことだ。
カウンセラーはPTSD (心的外傷後ストレス障害)という診断を下した。

にわかに自分の状態が見えて来た。

しかし「毎日生きるだけで必死」という状態はすぐには変わらない。

子供への影響を考え、
すこし距離を置くことを考えた。

カウンセリングは本当の自分を探させてくれる。
治療というよりも、
「人生を振り返る」「生き直す」という意味の方が大きい。

その過程で、さまざまなことに気がついた。

たとえば
彼女は絵に関することを、習慣的に避けていた。

理由はいくつかある。
ひとつはまだ夫と結婚する前のことだ。

美大進学も頭の片隅に置きつつデッサンに励んでいたところ、
「絵に向かっている間、相手をしてくれないから」という理由で嫌がられた。

そこで彼女は絵を封印したのだ。

それから芋づる式に、幼少期の不遇体験を思い出した。
これが黙って夫の欲求を飲んだ遠因だった。

文化服装学院に通っていた学生時代の記憶も足枷になっていた。
天才と見まごうほどデッサンが得意な生徒が多く、
自分の画力にコンプレックスを植え付けられていたのだ。

そんなこんなが重なり合って、自分でも気がつかないうちに、
文房具店に入ることさえ出来なくなっていたのである。

服飾専門学校の学生だったことから分かる通り、
彼女はデッサンの技術を習得している。

少女時代はカラフルな色彩で知られるKENZOの服のファンだった。
そんな時代を反芻しながら、
彼女は自分を見いだす手段として再び絵筆を握り始めた。

しかし、その道のりは平坦ではなかった。

絵の具を買えるようになるまで、カウンセリングに

半年。

自分で自分の絵を認められるようになるまでに

2年。

そんな葛藤を経て、ようやく
「自分にはもともと
クリエイションする気持ちがあったんだ」
という事実を受け入れられるようになった。

並行して土いじりを通して癒やされていくことを実感し、
ガーデニングに力を入れるようになった。

すっかり忘れていたが、
実家は都会のなかで取り残されたかのように野菜や緑がある場所で、
彼女の心象風景には絵も花も両方あった。

手を動かしながら、徐々にそれを形にしていったのだ。

病気療養中に家族で訪れたコスタリカの影響も大きい。
KENZO好きな彼女は、鮮やかな色彩溢れるラテンアメリカの風光に引きつけられていた。

青年海外協力隊で、
婦人子供服隊員としてパラグアイに赴任していた時期もある。

南米の色調は彼女の着想の源泉だ。

療養を口実に、彼女は動植物の宝庫として知られ、
エコツーリズム発祥の地でもあるコスタリカへ2度飛んだ。

小さな国土にジャングル、高原、山脈、そして常夏のビーチが凝縮された大いなる自然。

それが生活の傍らに息づく様は、彼女の網膜にしっかり焼き付いた。

現在の作風はアクリル画で、
マスキング技術を駆使して切り絵のようにくり抜いた型紙の上から色を塗り重ねるというものだ。

技法の性格上、くっきりした輪郭線に縁取られたモチーフが、どっしり描かれる。

ガーデニングで慣れ親しんだ花の絵が多いが、
鳥やネコのほか、現代的な街並みや
日本の伝統が顔を覗かせることもある。

ファッションという立体の世界がベースにあるためだろうか。
ときとして、マミーさんの作品は
キャンパスという平面の世界には収まりきらなくなることもあるそうだ。

創作意欲が沸き立って、
キャンパスにビーズや編み物などの手工品を貼り付けたくなるのだという。

そんな自分を持て余しつつも、
マミーさんはマンハッタンのギャラリーで個展をひらくことに意欲を燃やしている。

ライター: 檀原(@yanvalou)

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ライターのヤンバルーさんに
「マミーがなぜ絵を描くのか?」
その答えを書いて頂きました。

今でも震災の部分を自分で書こうとすると
感情が高ぶってしまいます。

ノンフィクションライターでインタビュー経験豊富な
ヤンバルーさんだからこそ、
逆に、本当のマミーの経験を書いて頂けました。

マミーはこうして今、絵を描いています。
興味を持って頂けたら幸いです。

「NY絵描きマミー」 Yukiyo
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