生きづらい人と共有したい「毒親対策」

「毒親」という言葉がある。

子供を殴ったり蹴ったり、
食事や教育を与えない、
人とは思えない親のこと”だけではない”。

これらは「虐待」「暴力」「犯罪」とも言い換えられますが、

これと言って目立たない、
社会的立場に問題のない
「普通の親」

だけど「毒親」と言う場合があるんです。

「普通の親」だと思うことを救いにした少女

2012年夏から受け始めた
PTSD治療のカウンセリング2回目。

カウンセラーから聞かれたこの質問。
「家族との関係はどうでしたか?」

こう答えていた。
「何も問題ありません。普通の家族です。」

実際そう思っていた。
思い込んでいた。
「普通の家族」なんて知らないくせに。

結果から言うと、
私は「毒母」に育てられていた。

長女の心を母に依存させ
世間と隔離させる。

子供を吐け口のカウンセラーにし、
自分が社会や家族と折り合いをつける。

精神的に子供を蝕む母親だったのです。
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参考にしている本

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↑何年も前から知っていた本。

カウンセリングを受けるまでは
自分には関係のない本だと思っていました。

長いカウンセリングを受け、
ついに読んでみたその本の

最初の項目が、
母親のカウンセラーになる長女の話。

あまりのショックに、
本を閉じ、

そこからまた読めなくなりました。

「台所」が毒吐き現場

母の毒吐きを台所で一心に受け止めた
「子供の私」は

世界は母親に苦しい思いをさせる
敵だらけだと考えていた。

好きな家族や親戚を憎み、

社会は怖かった。

世間の人はみんな台所に入ると
悪口を言うと思っていた。

「子供の私」が小学校3年ごろ、
母から離婚の相談をされた。

そこからは毎日怖くなった。
学校から帰ってきたら
お母さんがいなくなっているのではないか?

その恐怖から学校へ行けなくなった。

小学校3年の不登校、
長い時で2ヶ月行けなくなった。

母は私が学校でいじめられたと思っていた。

その心の機微を小学3年生は説明できない。

心の不安から来る、謎のだるさを
腹痛や頭痛で表現し、
あとは泣くか怒るだけだった。

悪口を聞き続けた子供に訪れる闇

母親のカウンセラーと言っても、
子供がカウンセリングなんてできるわけない。

世間の悪口。
親戚の悪口。
家族の悪口。

ただこれらを聞かされるだけ。

この中に「絵描きマミー」が
絵を描けなかった理由もあった。

祖父母を訪ね、
時々お茶を飲みに来ていた
画家のおじさんだ。

もちろんその画家の悪口も
母から聞いていた。

「子供の私」が
絵を描くことを好きだとわかっていてもだ。

関係ない。
誰の悪口でも言うのだから。

「子供の私」に問題が起これば

父のせい、祖母のせい
誰かのせいになる。

それでも
子供の話を聞いてくれる人だったならば
救われたのかもしれない。

母は
「子供の私」の話はほとんど聞いてくれなかった。

頑張って話したとしても、

否定形で返されるか、
返事もうなずきもないノーリアクション。

もちろん
逆ギレで怒られたことはよくあった。

「そんなことを言ったって
お母さんは忙しいんだから仕方ない!」

決め言葉がこれ。

だから未だに「忙しがる人」に嫌悪感がある。

忙しさは免罪符ではない。

悪口を聞き続けた
「子供の私」は

精神的に孤立。
世界は敵だらけだと思っていた。
そして、
母を守らねばならないと思っていた。

どんな状況でも
「子供の私」は母が大好きで、
母が正しいと思って生きていた。

母を苦しめる家族が悪い、
親戚が敵、社会は怖い。

そんなことを言っても母以外の家族も好きだし、
親戚も私にはいい人でしかない。

愛する人々が憎い。

この相反する強い気持ちが心を蝕み、
「生きづらさ」を生み出していたのでした。

「助けて」と言えない子供

「助けて」と言えない子供のまま成長した。

母の不平不満を聞くことが
母子のコミュニケーションだと信じ、

母の話だけを聞き、
自分の話を聞いてもらえず生きてきた結果…

何か自分に問題があっても
「助けて欲しい」と表現ができなくなった。

エピソードが2つある。

小学校高学年の仲良し3人組。
いつもいっしょに遊んでいた。

ある日その2人から無視された。

原因は友達じゃない幼馴染と遊んだから。

無視された後、
誰にも何も言わず3日間学校を休んだ。
それはそれは辛かった。

助けてほしかったが
何も誰にも言わなかった。

「言えなかった。」

いや

「言い方がわからなかった。」

3日間休み、出した答えは
「友達いらない」

一人でもいいやと開き直っていたら
友達から勝手に「許す」と言われ元に戻った。

小学校の通学路で首のあたりを
蜂に刺された。
(今思えば虻だったと思うけど)

とても痛かった。

でも誰にも言えなかった。
ただ学校の席について涙を流していた。

こんな時に
なんと言っていいのかわからなかった。

周りがざわついていた。
その後どうしたか記憶はない。

カウンセリングを受けながら、
子供時代「助けて」と言った記憶を辿ったら
出てきた記憶がこの2つだけだった。

「助けて」って言ったって、
迷惑そうにされるから、
なるべく言わないようにしているうちに、
全く言わなくなったのだろう。

そして、今でも自分が苦しい時、
誰に何をどう言えば良いのかわからない。

「助けて」が言えない。
人に助けを求められない。

これが、
母親のカウンセラーをしていた私の心の癖だ。

「生きづらさ」の構造

「助けて」が言えない。
人に助けを求められない。
自分の心の癖。

この構造がわかっていなかった。

大人になっても数年に一回は
誰かに助けてもらいたい問題が起こる。

それでもなんとかなってきた。

友達変えたり、
環境を変えることでなんとかなっていたのだろう。

一人であれば自由に苦しさから逃げることができたのだ。

この問題が
母由来の問題だなんて思いもしないまま、
結婚して子供ができた。

この時に爆発した。

実際に赤ちゃんを抱っこし、
この子をどう育てていくのか考え始めた。

母と同じ育て方だけはしたくない。
自分と同じ経験だけはさせたくない。

子供の顔を見てはっきりとわかった。

親の愚痴を聞いて我慢させて、
世間に怯えて生きる。

そんなことを子供にさせたい親がどこにいるのだろう?

母はなんてことを「子供の私」にしたんだ!

出産後母に怒りを出した。

でも、まだカウンセリングを受けておらず、
心の構造を正しく説明できず、
ただただ母に怒って泣くだけであった。

実の母の子育てが間違いだと認めるのは、
簡単ではない。

それは、
「自分が間違って育てられた」
と言うことを認めることになる。

子供は関係なく育っていく。
芯にある問題は触れず時間は流れた。

自分が子供の時に抱いた苦しみは
今の子を育てることで帳消しにしようとしていた。

自分が嫌だったことは絶対にしない。
頑なに頑張った。

ところが、子供が良い子に育てば育つほど、
自分の価値が下がっている気がした。

自分が間違って育てられたことを
証明し続けていたからだ。

育児と、海外生活と、結婚生活のストレスは溜まりに溜まっているが、
表面を繕う器用さも母親譲りだ。

一見、幸せな結婚生活は続いた。

震災直後に海外生活「誰が耐えられるか!!」

助けてが言えない私は耐え続けた。

英語でのやりとり、
ブランク長いし、もう忘れた。
辛い。

(助けて。)

子供が英語ができないのを見るのも辛い。
だけど、勉強させるのも辛い。

その間に日本語から離れていくのも辛い。
英語で大変な息子に日本語も勉強させるの辛い。

(助けて。)

3才の娘に友達がいない、
悲しい辛い。

(助けて。)

ご飯だって、日本食は価格が上がるし、
かと言って
すぐに現地のスーパーで
好き嫌いの多い子にアレンジした食事は簡単ではない。
何食べたらいいの!?

(助けて。)

夫には、
家事をもっと手伝ってほしい。
せめてゴミ捨てしてほしい。
娘を学校へ送ってほしい。

でも言えない。

(助けて。)

本当は震災の時怖かった。
お店から食べ物が無くなるのを見たときの恐怖を共有して。
原発の情報が全然出ない恐怖。
水道が汚染された恐怖。

だけど、みんな耐えてるんだから。
それなのに、外国へ行ってしまうんだから。
私に「助けて」なんて言う資格はない。

(でも助けて。)

2011年3月28日に渡米し、
耐え続けて約1年、

2012年5月ごろ
ある時トリガーを引いてしまった。

夫の悪口を息子に言ってしまったのだ。

大した問題ではないと言われるかも知れない。

だが、
「母から悪口を聞き続けた私」にとっては
決してやってはいけないことだった。

ついにキレた私は
息子と夫に「助けて」と叫び続けた。
気が触れているのは明らかだった。

言語化できない修羅場を繰り返し、
カウンセリングを受け始めた。

すぐに診断されたのは、
この症状は震災のPTSDだったということ。
小さい子供のいるお母さんが多くなると言われた。

問題はここから。

カウンセリングを始め2回目の
カウンセラーからの質問。

「家族との関係はどうでしたか?」

私はこう答えていたのだ。

「何も問題ありません。『普通の家族』です。」

ここから自分の母との関係が
普通ではないとわかるまで一つ一つが長かった。

2012年から3年かかり、
自分の親が問題だったことを認められ、
最初に紹介した本が読めるまでさらに3年。

それでもさらに1年カウンセリングを続け、
この様に誰かに知ってもらいたい、と
文章化までできるようになった。

2019年、夏。

ついに自分の中にいる
「子供の頃の母親」と決別できた。

「子供の頃の母」との決別

きっかけは祖母の死だった。

祖母は初内孫の私を
特別にかわいがってくれていた。
私も祖母が好きだった。

その大好きな祖母の悪口も聞いて生きてきた。

大好きだけど、
「おばあちゃんがしんでくれたら、
私とお母さんは幸せになれる。」

そう思うことがよくあった。

その考えは間違いだ、と言うかのように、
祖母は113歳という長寿で大往生をした。

お葬式の後、
母と電話で話した。

恐ろしいことに、
2018年まで、
私は電話で母のカウンセラーをしていた。

それに気が付き、
罪悪感を持ちながら、

もう私は彼女の愚痴を聞かないと決意した。

それから約1年。
2019年夏の電話で、

私はあなたから悪口を聞きすぎた。
子供に悪口ばかり話すのは虐待と同じだ。

だから私は生きづらいことが多々あった。

そういう仕打ちを
あなたは娘にしたことを自覚して下さい。と。

母がどういう対応したかは、
もう問題ではない。

私がこの言葉を口に出せたことが大事だ。

自分の心の中にいる「子供の頃の母」とは
切り離せた。

それでも、
未だに誰かから愚痴を聞きたいと思う。
それが自分にとって心地よい
子供の頃の記憶になってしまっているのだ。

そんな時はカウンセラーと話す。

悪口を聞く以外の
心地よい心の置き場所へ自分を戻す必要があるからだ。

「助けてと言えなかった子供」の今

小さい時に親から作り上げられた心の癖は
簡単には治らない。

今でも「助けて」とは言えない。
「助けて」に代わる言葉も見つけられない。

辛い時は一人でぐっと考えてしまう。

それでも「助けて」に代わる言葉を
誰かに頑張って言ったこともある。

その時は罪悪感が起こるのだ。
罪悪感が起こるぐらいなら言わないほうがいいと思う。

でも本当はそうじゃないとも思う。

まだどうしていいのかわからない。

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最初に紹介したこの本。
具体的にどう考えれば
毒親と決別できるか書いてありました。

書いてある言葉を言うだけで救われます。

実際に対面して親に言うかは関係ありません。
自分がこの本で指定された言葉を
口に出せるかどうかです。

何ヶ月もかけて読みました。
まだ口に出せない言葉、
読むだけで泣いてしまう言葉もあります。

それでも読まなかった時よりも
平和な心を手に入れました。


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